*第10回研究会報告 【シリーズ 舞踏の系譜(1)暗黒舞踏のはじまりとその思想 ~土方巽、大野一雄らの試み~】

・日時:平成27年5月29日(火)17:00~19:30

・場所:愛知県立芸術大学博士棟 演習室

・テーマ:<シリーズ 舞踏の系譜(1)>

暗黒舞踏のはじまりとその思想 ~土方巽、大野一雄らの試み~

 

司会:高山

書記:牛島、高山

 

【文献資料】

・原田広美「舞踏大全 暗黒と光の王国」pp.18-19,39-53,76-77 現代書館 2004

・大野一雄「舞踏譜(増補版)御殿、空を飛ぶ。」pp.106-109 思想社 1998

 

【研究会の進行】

(1)舞踏の誕生とその変遷

  舞踏の歴史について(概略)

(2)創始者:土方巽

 a. 土方の思想について(「突っ立った死体」と「衰弱体」)

 b. 振付について(舞踏譜の存在)

 ・舞踏家 和栗由紀夫氏による、土方の稽古の回想

 c. 映像鑑賞

 ・土方巽「夏の嵐」より抜粋

(3)巨人:大野一雄

 a. 舞踏指示書にみる思想

 b. 映像鑑賞

 ・大野一雄「ラ・アルヘンチーナ頌」

(1) 舞踏の誕生とその変遷


 舞踏の歴史について(概略)

 

■ 舞踏の誕生とその拡がり(舞踏家:浅井信好氏より)

 

日本が創り出し、かつ世界中に衝撃を与えたはじめてのコンテンポラリーダンスである舞踏。

「舞踏」という言葉は江戸時代からすでに存在していたが、本来は「ステップ主体のダンス」 今でいう社交ダンスを指す言葉。それが現在のように日本固有のダンスを指す言葉として使わ れだしたのは 61 年に土方巽が自らを「暗黒舞踏派」と名乗ったことに由来する。 その後、弟 子たちが様々に「舞踏」を冠にしたカンパニーを名乗りだしたことで、海外でも「BUTOH」と呼 ばれるようになった。 

 

 舞踏は 50-60 年代に土方巽と、土方が 53 年に舞台を観て以来、兄としたった大野一雄とその 周辺を中心につくられた。 舞踏の創生期である暗黒舞踏時代は 3 期に分かれている。第 1 期は 「禁色」(59年)、「ディヴィエーヌ」(60年)らの洋物エロティシズム時代・第 2 期は「あ んま」(63 年)、「バラ色ダンス」(65年)、「四季のための二十七晩」(72 年)といった近代で は失われつつあった日本の習俗・土俗に根ざした動きの回収し振り付けに転換するようになっ た。第三期は第二期後半より現れる「いざり」や中腰といった動きを土方が芦川羊子らを中心 につくった「白桃房」の振り付けがこれにあたる。 性的な表現自体がタブー視されていた当時、 相当非難されることはあったが、三島由紀夫や澁澤龍彦といった知識人に評価され、彼らは自らが愛好する文学世界を実態化するミューズとして、土方に様々な情報・示唆を与えていく。 しかし、土方は自らの世界が深まるにつれて、次第に彼らとの距離を置き、逃れようのない「日 本人の身体」故の動きを探求していく。

 

 70 年代前半には舞踏は一段落ついたかのように見えた が、後半から舞踏系のダンサーが次々に海外公演を行い、80 年にナンシー演劇祭に大野一雄や 山海塾が出演したことで一躍、舞踏が世界に認識される。しかし、世界的に舞踏が注目される 反面、80 年代の日本では「BUTOH は世界に通じる」流れから、各地でワークショップなどが開かれ、流行った。そして、室伏鴻、大須賀勇、ビショップ山田、エイコ&コマ、カルロッタ池 田、天児牛大などを輩出した大駱駝艦や田中民、和栗由紀夫など多くの舞踏家を輩出した反面、 80 年代前半は空白の時代でもあった。アングラ演劇や舞踏が一息つき、コンテンポラリーダン スの波が来る前の狭間に数回のワークショップだけを受けて舞踏を名乗り公演を行う輩が増え たことで、うんざりさせられる時期でもあった。結局、この盛り上がりは 80 年代後半にコンテ ンポラリーダンスにとって代わられることになる。 その後、幾つかのカンパニーやダンサーが 舞踏と向き合いながら、継承と独自のスタイルを獲得しながら、90 年代に入って、コンテンポ ラリーダンスと舞踏をボーダレス化していく山田せつ子、伊藤キム、大橋可也などが現れ、新たな変化をしていった。 



(2) 創始者:土方巽

 

◎1928年(昭和3)秋田市生まれ。ノイエ・タンツを中心に、ジャズ・ダンス、バレエ、マイム等を学ぶ。美術家、写真家、音楽家、文学者らとも密な交流を持った。

 

a. 土方の思想について(「突っ立った死体」と「衰弱体」)

 (原田弘美「舞踏大全 暗黒と光の王国」pp.44-53より)

 

・土方の幼年期における記憶が舞踏における思想と結びついている。

・土方は昭和3年に東北(秋田)に生まれた。当時の東北は貧しく、度々凶作に見舞われていた。

・土方が6歳になった昭和9年は、全国的にも凶作だったが、特に東北は翌10年と2年続きの冷害に襲われた。寒く、食べる物もなく、生まれてきた子の間引き、口減しのための奉公や身売り、職業軍人への志願や戦死が後を絶たなかった。

・【風だるま(かざだるま)】→大風と雪に巻かれて冷え切り、動けない、口もきけない状態になって戸口に立つ来訪者のこと。=「あるがままの苦痛」「突っ立った死体」。

・「あるがままの苦痛」も「突っ立った死体」も、「硬直」に結びつく。「硬直」に秘められた「暗黒」的「病芯」の存在。

・【飯詰め(いづめ)】→土方の幼年期における東北(秋田限定?)の習慣。繁農期になると、幼児は、親が面倒を見ることが出来ないため、田んぼの畦道に置いた「飯詰め」と呼ばれる昼飯を入れた藁で編んだ桶の中に1日中入れられた。子どもはその中で垂れ流しになり泣き出すが、強い風にその声はかき消されて親には届かず、子どもは空ばかり見て過ごすしかない。夕暮れにはそこから抜き出されるが、その頃にはもう、子どもは親の顔を見ず、何も言わず、足は長時間窮屈な空間に押し込まれ続けていた為に折り曲がってしまい、立つことも出来ない。しゃべってもしゃべっても、しゃべり切れないことを知ってしまった、せっぱつまった「口ごもる」身体である。

・土方は、この習慣がガニ股の由来であり、西洋の理路整然としたスラッとした足との違いだ、と言っている。

・ガニ股は、肉体の「闇」のひとつである。

・土方曰く、「世界の踊りは立つ所から始めている。しかし、日本の暗黒舞踏は立とうにも立てないところから始めた。その原因は深いですよ」。

・口ごもって、ガニ股と化し、スラリと立てなくなった肉体が「暗黒舞踏」を始めた。

・暗黒舞踏の「暗黒」=肉体の「闇」、「病み」

 


<参加者による議論①>

 

Q. 「暗黒」をわざわざ作品にするのは何故か?

A. 人は自己の内面に向かい合うことで自らを発見し、それを表現という形に結びつけてゆくのではないか。人の創作の原点のひとつだと感じる。

 

Q. 舞踏の何が魅力なのか?

A1. 思想以前に、眼前に現れる身体に満ちたエネルギーに圧倒される。美しい。粗雑なようで、極限まで削ぎ落とされた動きである。目を奪われる。

A2. 一見するとグロテスクな描写だが、身体の内側に秘められた動きを導き出している。アジア人の根底にある、逃れようのない貧しさから出てくる表現であると感じる。

 

 

b. 振付について(舞踏譜の存在)

 ■舞踏家 和栗由紀夫氏による、土方の稽古の回想

  https://www.youtube.com/watch?v=AT1mynCvQNY

 

・土方は自らの振り付けを、文字と図によって残している。=「舞踏譜」

・(映像中の解説より)「土方は、弟子に振り付ける時、「舞踏譜」と称して、細かな動作にまで及ぶ指示内容を書き込んだノートを残している。(中略)一見、自由で即興的に演じていると思われがちな土方舞踏だが、その背後には自らの作品を完璧なものにしようとする、土方の強い情熱と意志が働いていたのである。」

 


<参加者による議論②>

 

Q. 楽譜が文字で書かれている意味は?

A1. 西洋音楽は五線記譜法を発明し、音楽を記号化することでインターナショナルになり、「洗練」されていった。(ただし、現代においては音楽も扱う要素が増えて、記号では書ききれないこともある。)舞踏は、音楽がインターナショナルになる為に削ぎ落としてしまった部分こそを大事にしているのでは。

A2. コンテンポラリーダンスとは「思想のダンス」である。思想は、記号では伝えきれない。だから、言葉を使うことになるのでは。

 

Q. 舞踏における「思想」とは?

A. 例えば、バレエには思想は無い。そういう意味では、コンテンポラリーダンスは「アンチダンス」であるとも言える。

 

Q. 音楽において、記号で書ききれない要素が多く含まれるものとは?

A. 声楽、打楽器、管楽器、能における謡や囃子等。息を使うもの、発音器官と身体が直結しているもの。

 

Q. 舞踏における身体性とは?

A.「人工的に作り上げること」を西洋文化の特質とすれば、「自然であること、あるがままであること」を尊ぶのが東洋文化の特質とも言える。舞踏もその表れのひとつではないか。人間が、より原始的である時の身体を目指しているのではないか。

 

 

c. 映像鑑賞

 ■土方巽「夏の嵐」より抜粋

  https://www.youtube.com/watch?v=AEM9SAymJt4

(鑑賞は、「少女A」、「ギバサ」、「3人ベルメール」。)

 

 

(3) 巨人:大野一雄

 

◎1906年、北海道函館市に生まれる。生家は北洋漁業の開拓に成功した網元であり、豊かであった。キリスト教の洗礼を受けており、ノイエ・タンツを学んだ。舞踏に宇宙的な意識を持ち込み、「舞踏ファーザー」、「奇跡のダンサー」とも称される。



a. 舞踏指示書にみる思想


 

(「ラ・アルヘンチーナ頌」舞踏指示書:第5部アルヘンチーナの想出舞踏指示書より、テキスト抜粋)

 

花が闘牛に変わる宇宙の秘儀。けっして疑うな。小さな鳥のさえずりは繊細さだけではダメ。宇宙的巨大さも必要だ。百年一歩の突き抜けた魂の野放図はどうなるんだ。やがて次の闘牛の場になるとき、巨大で、粗暴な死と生の間での展開の時に、人間に飼いならされた、人間に立ち向かってくる闘牛。

一匹の蝿だって、巨大なものとして宇宙の生命に肉薄することだってある(魯迅)。

 

◎一般人が「舞踏譜」=舞踏のための楽譜或いは指示書、だとして想像するものとは大変に異なる、非常に詩的かつ幻想的なイメージに満ちたテキストである。

 

 

 

b.映像鑑賞

 ■ラ・アルヘンチーナ頌

 https://www.youtube.com/watch?v=cG4H4yeNHs0





 <参加者による議論③>

 

Q. そもそも何故、舞踏を楽譜にする必要があるのか。

A. 再現性のため。無ければ再現性が揺らいでしまう。即興と、楽譜があるものでは完成度が違う。音楽でも同じ。スコアを捨てたくはない。

 


Q. 舞踏手と現代音楽家がコラボレーションする可能性があるとすれば、どのような方法があるのか。

A1. 確かに表現に用いるメディアは異なるが、人には共感覚というものがある。例えば、「黒板を舐めるような・・・」と言えば、互いにそれとわかる何かがある。そういう意味で、言葉はメディア間の共感覚を導き出す触媒となることが出来る。

A2. 現代音楽の楽譜には、すでに色々な形で出来ている。様々な手段を用いる事が出来るようになった分、以前よりはずっとやりようがあるのではないか。

 

 

<その他、感想>

 


・この時代における舞踏は言葉から発想されたものである。舞踏家は詩人で思想家。
・舞踏における音楽は、踊りのあとについてくるもの。西洋におけるバレエ等とは真逆。

・舞踏譜はまるで、聖書のようだ。

 




【参考作品】


 ■暗黒舞踏創世記の主要な舞踏家らが参加している作品「あんま」

  https://www.youtube.com/watch?v=76KWarG6ABo



 


(文責:高山、牛島)