第4回 研究会報告 【サミュエル・ベケット】

* 第4回現代音楽舞台研究会


・日時:平成26年7月25日(金)14:00~17:30

・場所:愛知県立芸術大学博士棟 演習室

・テーマ :「サミュエル・ベケット」

・ゲスト:寂光根隅的父氏

             (演出家/劇団双身機関主宰/七ツ寺共同スタジオプロデューサー)

・オーガナイズ&解説:大塚 直先生(愛知県立芸術大学教授/西洋演劇論)

 

司会:高山

書記:牛島、高山

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

 【研究会の進行】

 

■前半

   ベケットとの出会いと上演 <寂光根隅的父氏によるレクチャー>

  (お話中に「ゴドーを待ちながら」及び「クラップの最後のテープ」の鑑賞)


■後半

   ベケット演出の歴史について <大塚直先生レクチャー>

  (お話中に「NOT I」及び「Quad 1」、「Quad 2」、「夜と夢」の鑑賞)

 

 

 

【当日の様子】


 開始約30分前に研究会初のゲスト、寂光根隅的父氏が登場!全く壁を作らないくだけたお人柄に、緊張していた運営メンバーもすっかり笑顔になりました。その後、今回のオーガナイズをして下さった大塚先生、顧問の久留先生をはじめ、毎回熱心に参加して下さる学生さんや若い作曲家の皆さんも続々と到着。更に途中からは運動生理学がご専門の石垣享先生、音楽学者の黄木千寿子先生もご参加下さり、小さな部屋は満員に・・・!

いつもにも勝る熱気に包まれました。

 

 

 

《寂光根隅的父氏とベケットについて》

 

 寂光根隅的父氏は名古屋を中心に活動する劇団双身機関の主宰であり、近年ますますご活躍の場を広げていらっしゃる演出家でもあります。その氏が昨年、あいちトリエンナーレの関連事業で演出されたのが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」でした。また、氏は2012年に同じくベケットの「幸せな日々」を演出され、利賀演劇人コンクール2012 において優秀演出家賞・観客賞をダブル受賞。2013年には、鳥の演劇祭6 (鳥取) にも招聘された上、再び同作品を演出されています。


 こうしてみると、氏はこの2〜3年だけで随分ベケット作品の演出をしておられるようですが、調べてみるとここ数年、氏の関係のみならず、国内のあちらこちらでベケットを取り上げる公演が行われているようです。更に今年は早稲田大学演劇博物館における「サミュエル・ベケット展」が話題を呼んでいたり、何やらベケットブームの様相・・・

それは何故か?という問いに、演出家として実践の立場からお話頂きました。

 


 

■前半:ベケットとの出会いと上演(寂光根隅的父氏によるレクチャー)

 

 

①ベケット上演に至るまで

 

1. 高校時代


・高校で演劇部に入っていた。当時は別役実が流行っていて、そこから不条理演劇の魅力

   を知った。

・不条理特有のかみ合わない会話に面白さを感じ、この裏には何かがあると思った。

・演劇部の顧問の先生は、小劇場運動が最も盛んだった頃に演劇活動をしていた人。

 ある日、その先生が教室に駆け込んで来た。

 「寺山修司が、死んだ!」・・・誰ですかそれは、と言ったら、𠮟られた。

・当時は北村想、野田秀樹が主流という時代。しかし、顧問の先生の影響で、それに先行

 する世代への興味が強かった。

 

2. 1982年、第1回世界演劇祭「利賀フェスティバル」のこと


・1982年に利賀村で、日本初の世界演劇祭が行われ、NHKで放送された。それを夜な夜

 な視聴して、メレディス・モンク、タデウシュ・カントルらの演劇に触れた。非常に衝

 撃を受けたが、「演劇をやっていくなら、これらをわからないと言ったら負けだ」と

 思った。

 

3. 好きな演劇のスタイル


・演劇とは「上演」そのものであり、そこで戯曲はそれほど重要視されない。

・60年代には色んなアートの世界で大きな変革が起きた。演劇の世界でもメレディス・

 モンクやタデウシュ・カントル、ピーター・ブルックらが登場した。彼らが重視したの

 は言葉ではなく肉体。

・そのような上演形態に興味を持ち、自分でも突き詰めてゆきたいと思った。

 

4. ベケットとの出会い


・大学生の時に、初めて「ゴドーを待ちながら」を読んだ。だが、テキストとしての面白

 さは感じたものの、演出したいとは特に思わなかった。

・その頃は寺山修司に影響を受けた演劇活動を行っており、ベケットのことは単に劇作家

 であると感じていた。

・しかし、年月を経て自分でもベケット作品を取り上げるようになった今、実はベケット

 は演出もしており、またそれはかなり演劇の本質を突いていると分かってきた。

 

 

② 2013年のあいちトリエンナーレ関連事業でベケットを取り上げた理由

 

1. ハイナー・ミュラー プロジェクトをきっかけに


・ドイツの劇作家ハイナー・ミュラー(1992から1995まで、ベルリナー・アンサンブ

 ルの芸術監督)の戯曲は、それまでの戯曲の常識をくつがえすような発想で書かれてお

 り、その難解さ故に上演不可とまで言われたが、逆にそれをどのように上演出来るのか

 ということが世界中で試された。

・日本でも演劇評論家の西堂行人氏らを中心に「ハイナーミュラープロジェクト」が開始

 され、様々な探索がなされた。

・この活動と縁があって、2003年に七ツ寺共同スタジオでも「ハムレット・マシーン」

 を取り上げた。この頃からヨーロッパの先鋭的な劇作家の作品を紹介することに興味を

 持った。

 

2. 2010年にあった伏線


・2010にあいちトリエンナーレの関連企画として、イギリスの劇作家サラ・ケインを取

 り上げた。その時のシンポジウムで、お客さんから「ハイナー・ミュラーやサラ・ケイ

 ンといった新しい劇作家の源流にベケットが存在することを忘れてはならない」と言わ

 れた。このことをきっかけに、「ベケットをやらねばならない!」という使命感を持っ

 た。

・これらのことが2013年にベケットを取り上げることに繋がった。

 

 

③あいちトリエンナーレでの企画と上演について


<参考URL>

あいちトリエンナーレ2013並行企画事業・七ツ寺共同スタジオプロジェクト

クール・ガイア ーベケットの路地裏からー

http://nanatsudera.org/cool-gaia/


 

1. 上演におけるヒエラルキーの解体を意識して


・この企画では3本のベケット作品を取り上げた。作品はいずれも、美術作家、渡辺英司

 氏による「名称の庭」という作品の上で行った。

・演劇は総合芸術だと言うが、その考えの中にはパフォーマンスが上位にあって、音楽は

 BGMだとか、美術は背景であるだとか言うようなヒエラルキーがあるように感じてい

 た。そんなものは壊さねばならない、という強い意志があった。

・そのため、寧ろ美術作品が先行してある状況、その拘束の中で何が出来るか、というこ

 とを考えることで、新しい領域を切り開きたいと考えた。

 

<・・・ここで、企画で取り上げた3本のうち、「ゴドーを待ちながら」、「クラップの最後のテープ」(それぞれ一部分)の鑑賞。なお、「ゴドーを待ちながら」は寂光根隅的父氏の演出、「クラップの最後のテープ」は京都在住の演出家、田辺剛氏の演出。>


 

2. 「ゴドーを待ちながら」について


・ほぼ定説として、ゴドーはGOD(神)の比喩であると言われている。第2次世界大戦

 以降のヨーロッパではそれまでの秩序を保っていたキリスト教的な世界観が大きく崩れ

 た。この作品は、その後の状況の中で、「神を待ちたい、でも待っていて良いのか」と

 懊悩するヨーロッパ人の心象を現しているのではないだろうか。

・この作品は上演が3時間を超えることもあり、しかもどちらかというとそれがスタン

 ダードである。しばしば上演が「退屈」を伴って語られることが多い。(筆者補足:寂

 光根隅的父氏の演出は非常に躍動感があり、台詞回しもテンポが良い。観客の意識を舞

 台に引き付けておく工夫がなされている。)

 

3. 「クラップの最後のテープ」について


・原作では机の上にカセットテープレコーダーをおいて、自分が過去に録音した声を聞い

 たり、今日の声を録音したりしている。

・現在の行動と、カセットテープレコーダーから聞こえてくる過去の自分の行動がシンク

 ロし、現在と過去の時間が入れ子のような構造を成している。

・丁度この作品が出来た頃に、カセットテープが発明されている。それまでは記憶は日記

 を書くことによってなされたが、カセットテープの出現によって、記憶のあり方が変化

 したのではないだろうか。

・テキストによる記憶は、補完出来てしまう。しかし、声を聞いて蘇る記憶は生々しい。

 肉声が伴うことにより、過去の自分を美化することは許されなくなってしまう。

・当日の演出について、田辺さんはカセットテープというメディアが既に新しいものでは

 ないということを問題とし、映像をも利用して今の時代におけるこの作品のあり方を模

 索された。

 


 

■後半:ベケット演出の歴史について <大塚直先生レクチャー>

 

1. ベケット作品の特徴


・ベケットはエネルギーを組み尽くされた人間の姿を手を変え品を変え現していると良く

 言われている。


 【ドイツの演劇研究家、マリアンネ・ケスティング氏が74年に来日された時の研究会

  資料より、ベケットの紹介箇所を引用↓】


  登場人物は全てアウトサイダー。乞食や浮浪者、社会から阻害された人物である。殆

  ど枯れ木のように生活機能を失っている。手足の自由も無くした年齢不詳の人々。萎

  縮しきった人間性のアレゴリー。空虚な世界での登場人物達の触れ合いの中、しかし

  彼ら登場人物は、互いに接触こそしないが相互に信頼し合っている。彼らを結びつけ

  ているものは同一な状況である。

 

2. 演出家としてのベケット


・実はベケットは演出家として非常に「見せ方」に長けていた。

・形式的な美しさを特に気にしており、作品に幾何学的な構造を与え、反復とズラしを巧

 みに用いた。

・ベケット本人に言葉の意味を尋ねると「どうでも良い」と答えたという話がある。彼は

 リズムを重視しており、練習にメトロノームを利用したこともある。

・ベケットは作品の中に演出への指示が明確にあり、上演にあたってはそれを必ず遵守せ

 よと求めている。(「作品に音楽を挿入してはいけない」等)

 

3. コンテクストが作品に与える意味


・演出への厳しい規制がある一方、ベケット作品は上演されるコンテクストによって新た

 な意味が付与される性質を持っている。これまでは特に世界各地の危機的状況下で繰り

 返し上演されてきたという歴史がある。

・例えば、1993年、コソボ紛争下にあるサラエボにおける、スーザン・ソンタグによる

 「ゴドーを待ちながら」上演。ここではゴドー=GODはNATOによる介入を指してい

 る。

・日本では、東日本大震災の後に非常に多くの「ゴドーを待ちながら」上演がされてい

 る。中でも2011年8/6には東京の劇団かもめマシーンが「福島でゴドーを待ちなが

 ら」と銘打って、福島第一原発よりわずか20キロの路上で公演を行ったことは、意味

 性を考える上で注目に値する。観客はたった1人しか居なかった。

 

<ここで、「NOT I」及び「Quad 1」、「Quad 2」の鑑賞。空間の使い方における対称性、時間構造の幾何学性など、確認。>


 

4. ベケットの言語


・フランスの哲学者ジル・ドゥルーズはベケット論『消尽したもの』の中でベケットの言

 語のあり方を3つに捉えている。


 1つ目は、名詞の言語である。言葉だけを投げかけている

 2つ目は、声の言語である。言葉と決裂している

 3つ目は言語を超えたイメージである


・切り詰めてミニマリズム化しているが、爆発にそなえて集められたエネルギーのよう

 だ、そうしてミニマリズムを汲み尽くしてゆくのだ、というようにドゥルーズは捉えて

 いるようだ。

 

5. 音楽作品との関連


・ベケットはシューベルトの作品を愛し、シューベルトによる歌曲「夜と夢」からインス

 パイアされた同名のテレビドラマ用作品を書いている。

・戯曲の中の「夢見る男A」はダンテ『神曲』の中に出てくる1人の男の姿をモティーフ

 にしているとのこと。ベケットは大変博識であり、様々な芸術作品からモティーフを引

 用することが度々ある。

・夢見る男Aは、シューベルトの「夜と夢」の最後を口ずさむと寝てしまうが、その後夢

 の中の姿として、男Bが男Aと左右対称に現れる。(空間の使い方の対称性)

・男Bの上に謎の手が浮かび上がり、男に聖盃で何かを飲ませたり、布で顔を拭いたりす

 る。Bに重ねられているのはキリストのイメージ。これが2回繰り返される。2回目は1

 回目に対しスローモーションで行われる。(時間の反復とズラし)

 

<ここで「夜と夢」の鑑賞。事前に解説されたベケット特有の時空間構成を改めて確認。

 その後、シューベルトの歌曲「夜と夢」も鑑賞。>



 

☆参加者からの発言


・ベケット作品は不条理だと言われており、そう思っていたが、寧ろリアル過ぎる程にリ

 アルだと感じた。

・その時間構造において、非常に音楽的であると感じた。特に「夜と夢」において、冒頭

 で歌を口ずさんだ後は全く台詞が無いにも関わらず、小道具、身体のあり方(角度など

 も)、仕草、何かを行うタイミング等によって観る人に豊かなイメージが伝えられ、そ

 れらによって構成される時間構造も全く音楽的であり、大変驚いた。

・(寂光根隅的父氏への質問)「ゴドーを待ちながら」の演出のテンポを早くしたのは何

 故なのか。ウラディミールとエストラゴンは老人ではないのだろうか。作品の解釈のた

 めに考えさせる時間があっても良いのではないだろうか。

 (A.現実的な上演のため、また日本の現在におけるゴドーの上演は、必ずしも2人が老

 人である必要は無い。実際、戯曲に忠実なものを観せても、受け取られ方には幅があ

 る。)

・(寂光根隅的父氏、大塚先生への質問)ベケットと向き合う時に、キリスト教の知識は

 必要だろうか。(A.ダンテ等、過去のものを色々と引用しているのは事実だが、それを

 鑑賞にあたってどの程度必要とするのか考えることは難しい。知った上での楽しみ方も

 パフォーマンスとしての楽しみ方もある。ただ、作り手側は分かっていることが必

 要。)

・(寂光根隅的父氏)絶対音楽という考え方と同様に、絶対演劇という考え方もある。



 

<文責:高山>